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片山哲也は頭は良い一方、あまり要領が悪いとは言えない人生を歩んできました。
高校を優秀な成績で卒業して名古屋近郊にある私立大学文学部に入学、以後は日本史学研究室に所属して大学院にまで進みました。片山哲也はこの時、1度目の運命的な出会いを果たします。それは修士課程1年の時に、退官した前任の教授に代わって着任した岩崎准教授との邂逅です。岩崎准教授の日本史に対するひたむきさと赫々たる研究業績に魅せられた片山哲也は、自分もいつか学会に日本史の新たな1ページを刻んでやろうという意気込みが生まれ、日本史研究者を志します。
博士後期課程の間まで約6年間、研究者としての技術を磨いた片山哲也は研究の専門分野を中世日本の対外関係史に定め、『中世日本の北方海域における交通と交流』というタイトルで博士論文を提出します。これで見事文学博士号を獲得しましたが、この後は本来の要領の悪さが発揮されてしまいます。彼を雇用してくれる研究機関が無かったのです。大学院在学中から何件かの公募に応募してはいたのですが、公的書類で自分をアピールするという感覚や方法論に疎かったため、文学博士号を持つ研究者となって以後も無職と変わらない日々が続きました。

折悪く彼が無職であった時期日本は就職難の真っ只中で、彼も近隣の高専で非常勤講師をして糊口を凌ぐのがやっとでした。しかし、そんな時に片山2度目の運命の出会いが訪れます。この高専の事務で働く折原かえでと出会い、2年の恋愛を経て結婚するに至ったのです。片山哲也はこの結婚を期に一念発起して、何とか就職をもぎ取ろうと奮闘します。しかし、突然要領が良くなるわけでもなく、一向に職場から拾い上げられることはありませんでした。
そんな苦境を支えたのは妻のかえででした。生活が苦しいにも関わらず笑顔を絶やさない妻の相貌と結婚4年目で生まれた双子の長男と長女に報いるため、片山は「漂流する海民と北方交流の礎」という渾身の論文を書き上げます。発表してから2年間、この論文は学会から歯牙にもかけられませんでしたが、ロシアとの関係改善が日本の急務として認識され始めたのと軌を一にして再評価されました。最終的に日本史学研究学会の年間最優秀論文賞を受賞するに至り、彼の名は日本史学会に大きく知られることとなりました。

それから1年ほどして、片山哲也は大学から国際関係学科を新設するに当たり、准教授として着任して欲しいという話を受けます。二つ返事で承諾した片山は大学の教員として採用され、3年後に国際歴史コースが新設されたことで、その教授に就任しました。その後は恙無く職務を勤め上げ、多くの学生を社会へ送り出した達成感を胸に大学を退官します。退官以後は幸せな隠棲生活を送りながらも、歴史研究者として多くの成果を著し続け、中世対外関係史研究の名家として研究者の間から尊敬されました。

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